当時の吉原はまだネットが普及しはじめの時代でしたから情報はマンゾクやナイタイなどの風俗誌か
実際に足を運んで集めるしかありませんでした。
当時の吉原は客引きの規制がなく通りにはお客さんと客引きがゴチャゴチャになり賑やかでした。
オーバーでなくタクシーなどで信号を止ろうものならボンネットに飛び乗ってくる勢いでしたから…。
高級店しか興味がなかったので、トゥールダルジャン(現在の秘書室)の角でタクシーを降り
仲ノ町通りまでを歩くのがお決まりのコースでした。
客引きの写真を見ながら、お店を選ぶのですがまだパネルマジックと言う言葉があった時代で
今の修正写真と比べたら可愛いものですが、部屋に入ってから
「お客さん写真で入ったの~?あの写真5年前のなのよね~変えてって言ってるのに変えてくれないのよ~」
なんてのがザラでしたからw
お客さんも景気の良い人が多かったですね。
ダブル、トリプル(2時間を二枠、三枠)は当たり前、お店の女の子全員貸し切って
ディズニーランドに行ったなんて豪気な話を聞いたことあります。10人としても
軽く300万超えますから凄い時代ですよねw
ボクも飲み屋とソープランドにぶん投げた金で都内に一軒家が建つんじゃないかと思います。
あの時のお金があればな~と思いますが悪銭身に付かずってのはホントですねw
水商売時代は毎日浴びるように酒を飲み、時間があればお客さんと会う日々でしたから
ソープランドへ度々遊びには行きませんでした。
その後に金融業に就くのですが、ここからソープランドに開眼する訳です。
初めての締め日に飯を食ったあとソープランドへ連れて行ってもらい
随分と景気の良い会社だな~と思っていたのですが、
締め日と言っても月に一回ではなく月に四回もあるのです。
そのうちソープランドを探すのが自分の役目となり
毎回、締め日の度にマンゾクやナイタイを見て今日はどこへ行こうかと考えていました。
一年程経ち資金を貸してもらい独立する事になりました。独立といってものれん分けのような形で
最初の元金を回収するまでは固定給なんですが、元金を返済し終えた後は利益から何割かを
修めるだけですので、27くらいでかなりの大金を稼いでいました。
ただこの業界、稼いだ金を自分だけで貯蓄したりすると裏で何言われるか判りません。
人に目立つように遊ばなくてはいけないのです。
ここら辺のエピソードは沢山あるのですが、話せない事がありすぎて書けませんww
まぁそんなこんなで遊びまくりの日々がはじまる訳です。
時は流れて、20歳の頃新宿で水商売をやっていました。
若かりし頃は紅顔の美少年と呼ばれていましたのでそれなりに人気がありましたw
お客さんで吉原のソープランドのお客さんがいました。
ほぼ毎日、10万円以上の会計をしてくれる上客(今風に言うなら太客ですね)
なので親しくしていたのですが、
「たまには営業においでよ」
と言われ、初めて吉原へと足を踏み入れました。
営業と言うのはお客さんで来てくれる方のお店にお返し的に足を運ぶ事です。
当時の水商売は、お客さんと体の関係を持つ事が基本的には許されず
寝て客を引こうものなら“枕ホスト”と呼ばれ馬鹿にされる時代でした。
余談ですが、当時はまだ、インターネットはおろか携帯電話が普及しかけの頃なので
口コミだけが唯一の情報源だった時代ですから、今みたいにホスラブなんて恐ろしい物ができた世の中で水商売をやっている方々は大変だと思いますw
で、初めてソープランドに行ったのですが、確か今は無きオンステージミラノ(現在のラストシーン)だったと思います。
ホテルかと思わんばかりの接客に驚き、煙草から飲み物まで上げ膳据え膳のサービスに驚きました。
この時はお客さんなので実際にサービスを受ける事はなく話して帰ってきたのですが、
やはり、本当にお客さんとして行ってみたくなり、後日吉原へと足を運ぶ事になるのです。
前にやっていたブログでも書きましたが、初ソープランドは中3の夏でした。
仲間とソープに行こうと計画しアルバイトに精を出し、
なけなしの金を握りしめ千葉の栄町と駆け出しました。
BGMはもちろんスタンド・バイ・ミーですw
「兄ちゃん達一万円ポッキリだよ」
と言う客引きのおじさんに促され人生初めてのソープランドへ…
お店の名前も女の子(と言うには少年達にはトウがたっていましたが)も覚えていませんが
夏なのにクーラーが壊れた部屋で、女の子が化粧ドロドロになったのを覚えています…
まだデリケートだった私がなかなか射精できないと
「オナニーばっかりしてるからセックスでいけないのよ」
と手コキでフィニッシュされました。
騎乗位が好きじゃないのはこの時のトラウマかも知れませんw
少年達の耽美な夢は現実に打ち砕かれ、大人への階段を登るのでした。